モイライの糸 7

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【決断】

 
事務所に入ると、原と関口が手作り弁当を各々広げていた。
俺を見つけるた関口が、いち早く元気に挨拶をする。
「あ、おはようございまーす!」
昼過ぎておはようも無いもんだが、まあ、今日初めて会ったしな。
「関口さんおはようー」
俺は持ってた荷物を自分のデスクにどさっと置いた。

 
置いた鞄が変に膨らんでいたので、ちょっと不思議に思って開けた。

出てきたのは派手な包装紙の小袋だった。
「あ、可愛いー!何ですかそれー」
昨日気が動転していた時に買った靴下だ。
正直どんな物を買ったのかサッパリ思い出せない。
「靴下だけど……」
そう言って包みを開けると、中から素っ頓狂なオレンジ色の靴下が出てきた。
ワンポイントの枠を外れた大きなうさぎのアップリケが、側面に施してある。
「…………」
俺が絶句していると、覗き込んでいた二人が吹き出した。
「アハハハハ!超可愛いー!!」
「フフフ、川崎さんって普段はそういうのも履かれるんですね!」
俺はみるみる恥ずかしさで顔が火照っていった。
慌てて包装紙に靴下を戻し、鞄にまた捻じ込んで隠した。
 

ガチャ
先ほど俺が入ってきたドアから、井口次長が現れた。
若干メタボリック気味なお腹を突き出して、ふうふうと小走りにこちらに来た。
彼は、ポケットから取り出したタオル地のハンカチで額の汗を拭うと、一呼吸置いて話しかけてきた。
「どうしたの、楽しそうだね」
井口次長が尋ねると、原は気恥ずかしそうに答えた。
「いえ、川崎さんが可愛い靴下を持ってたもので……」
二人は再び弁当に向き直り、俺は半ばホッとした。
 

「次長はもうお昼お済ですか?」
「いや、さっきまで警察に居たんだ」
彼は眼鏡を少し曇らせながら続けた。
「後でキミにも話を聞きたいって言ってたから、承知しておいてくれ」
俺はゴクッと唾を飲み込んだ。
「はい、分かりました」
「その時間に会社に居た人間なんて、ごく限られているからなぁ。きっとすぐ捕まるんだろうさ」
次長はそう言うと、軽く肩をすくめて見せた。
 

やはり彼も、犯人は社内の人間だと思っているんだな。
彼はちょっとのんびり屋だ。
柔和な笑顔と人当たりの良さは群を抜いているが、少し人が良すぎて見通しが甘い帰来がある。
「そうですね……」
答えたものの、気が重かった。
どうしても、自分がしでかした事を抜きにしては話せない。
しかし、俺がしっかり証言しないと捜査も進まないかもしれない。
自分から進んで警察に行った方が、刑事への心象も少しは良くなるんじゃないか……?
俺は、自分が殺害に至っていない事を証言するために、警察に行こうと初めて思った。
 

  

【噂】

 

俺と井口次長、そして事務員2人の事務所には、静寂が訪れていた。
そんな中、ふと関口がその静寂を破って話し始めた。
「やっぱりー、春岡課長を殺しちゃったのって……高橋さんなんですかぁー……」
まさか関口がそんな事を言い出すとは思わず、俺は驚いて顔を上げた。
「昨日私たち、ちゃんと見たんです。高橋さんが会社に行く所と、出てくる所。

課長があの提案書を横取りしたのもつい最近の事だったしー……。やっぱり怪しいですよぉー!」
そうか、原が見たと言っていたが、一緒に居た関口も見てるんだな。
会社に行ったと関口は言ったが、実際は裏の花屋へ行っていたなんて分からないもんな。
 

しかし、昨日はかっこいいだなんて言ってたくせに……。

女ってホント分からねぇ。
関口は続けた。
「他の人もみんな言ってますよぉ。きっとやったのは高橋だろって。この間派手な言い争いもしてたし、それだってみんな見てたじゃないですかぁ」
「ええ、私もその噂を聞きました」
何てこった。
すっかり高橋が犯人扱いされてるのか!
二人の証言に俺は愕然とした。
 
確かにこの前の騒動は派手だった。
皆にも強く印象付いているはずだ。
この二人からもどれだけの噂が広まったのか分からないが、これだけ社内に広がっている限り警察も知っているだろう……。
俺も一度は確かに疑ったし。
しかし俺は、高橋がやっていない事を知っている。
まあ、それも俺が真犯人への切っ掛けを与えたからに他ならないからだけどね。
急がないとどんどん高橋の立場は悪くなるかも知れない……。
何と言っても、春岡は嫌な奴だがこの会社の社長の次男坊だ。
噂だけでクビになる事も、十分考えられる。
 

しかし、この場で俺が高橋の無実を声高にいう事は出来なかった。
それは自分の罪の告白に他ならないからだ。
俺は落ち着かない気分になり、一刻も早く警察へ行くことが最良だと思った。
よし、今から行こう。
意を決し立ち上がったとき、次長が声を掛けてきた。
「あ、川崎君。キミもお昼まだなんだろ?」
すっかり考え込んでいた俺は、その言葉に意表を突かれて驚いた。
「は、はい?!」
思わず声が裏返った。
「いや、お昼だよ、お昼」
ああ、昼飯か。
「まだですが……」
すると、言い終わらないうちに、次長が誘ってきた。
「おう、じゃあ一緒に行こう。ちょっと待ってて」
俺の返事も聞かずに鞄を拾い上げ、中からサイドバッグを取り出した。
「モールでいいよな」
次長は既に事務所のドアに手を掛けて居た。
断るタイミングを完全に逸した俺は、仕方なく同行する事にした。
  

 

【蕎麦屋】

 

今日2度目のモールは、お昼を過ぎた事もあって流石に混雑していた。
「何か食べたいものある?」
立ち並ぶレストランを眺めながら、井口次長は声を掛けてくれた。
「そうですね。何か、アッサリしたものが良いですね」
正直抜いても良いんだけど、そうもいかないよなあ。
誘われちゃったし。
しばらく歩くと丁度蕎麦屋の前を通りかかった。

これ幸いと俺は次長に提案した。
「次長、蕎麦にしましょう」
その言葉に立ち止まった井口次長は、一通りショーウインドウのサンプルを眺めて言った。
「ああ、うん、いいね」
蕎麦ならツルっと入るだろう……。
うん、我ながら良い提案だ。
俺は店の入り口に手を差し出し、次長を先に店内へ入れた。
赤と黒を基調にした店内は、モダンな蕎麦屋という風情だった。
男4人はちょっと苦しそうなちんまりとした4人掛けのテーブルが数個と、5〜6人が座れるカウンターが見えた。
「テーブルにしましょうか」
井口次長は軽く頷き、俺たちは奥のテーブルに移動した。
 

高橋の為にも、早く警察へ行かなくては。
しかし、正直怖い。
自分の罪を、どのように話したらいいのだろうか……。
そういう迷いもある事は確かだ。
だから俺は、今次長と飯を食ってるのかも知れない。
「いらっしゃいませ。御注文がお決まりになりましたら、お知らせ下さい」
ハッと我に返った。
店員が、お冷とおしぼりを持って立っていた。
「あ、俺、ざるね」
次長はさっさとそう言うと、眺めていたお品書きを俺の方に置いた。
ざるそばか……うん、俺もそれにしよう。
「あ、じゃあ同じものを」
すると次長は俺の方を見て言った。
「いいの?ゆっくり決めてくれて構わないよ」
この人は少し抜けてる所があるけど、何だかんだと気配りが細やかだ。
俺は少し微笑んで、自分も同じものが食べたくなったのだと答えた。
「そうか」
次長はそう言うと、はにかんだように微笑んだ。
  
注文を済ませて落ち着いた俺たちは、それぞれおしぼりを手に取った。
次長はおしぼりを広げて豪快に顔を拭き、ぐしゃっと丸めておしぼり置きに放り込んだ。
「ぷはーっ! いやー、スッキリしたよ」
そういえば次長はさっきまで警察に居たと言っていたな……。
俺は思い切って聞いてみた。
 

「次長は先程警察に行かれたんですよね」
すると、井口次長は少し顔を上げてしかめた。
「ああ、行って来たよ」
「警察では何か聞かれました?」
警察はどこまで掴んでいるんだろうか……。
今一番気になる事だった。
「昨日の行動とか、春岡課長の社内の評判とかだな。あなたは何処に何時に行きましたか?みたいな事も聞かれたよ」
「へぇ……」
聞きながら俺は手元のおしぼりを簡単に畳んで、コップからテーブルに滴ったしずくを軽く拭いた。

「昨日はモールでキミに会っただろう?その後家に帰って……。行動はそれ位かな。後は課長がどんな人物なのか……。これはちょっと言い難かったな」
「でしょうね」
彼の評判は、社内で地に落ちていると言っても決して過言ではなかったからだ。

  

 

【自分の記憶】

  
やってきた蕎麦をすすりつつ、俺は考えていた。
昨日の行動。
俺の昨日の行動。
警察に言うなら、ちゃんと思い出しておかないと、話すに話せない。
正直に言うと、気が動転していた所為か所々ひどく曖昧だ。

 
目に浮かぶほど鮮明に覚えている事も沢山あるんだ。
崩れるように倒れ込む人間。
穏やかな海。
コンクリートの床に置いた時の、頭がぶつかった音。
一体誰がその後春岡を見つけて、そして殺害したのだろう。
春岡が寒さで目が覚めるまでの短い時間しか無かったはずなのに、その間に都合よく見つけられるもんなんだろうか。
短い時間。
そう、少ししかなかったはずなんだ。
 
……あれ?
俺は、あの倉庫から……。
どうやって出てきたんだっけ。
ちょっと。
ちょっと待って。
俺、春岡を置いてからモールの入り口までの記憶が……。
 
無い。
 
ええと、春岡をジュースの瓶ケースの横に置いて……置いて……。
鍵を掛けたかとかいう問題じゃ無い。
俺は、そこからモールに着くまでの記憶が欠落していたんだ。
ということは。
その間に。
その間に殺したのは。
やっぱり俺なのかも知れないのか……!
 
その考えに到達したとき、俺は猛烈な寒気に襲われた。
そばをたぐる手もふるふると震える。
俺、自分がした事を覚えてないのか。
どんなに考えても、春岡を置いた後の場面は、既にモールの前だ。
急速に顔色を失くしていくのを、自分でも感じた。
 

「どうした川崎君」
次長は俺を覗き込んだ。
「どうした、具合でも悪いのか。顔色が真っ青だぞ」
俺は、無意識に人殺しをしてしまう人間なのかもしれない。
確かに春岡を嫌いだった。
けれども、殺そうと思ったことは一度も無かった。
しかし、現に春岡は撲殺されていた。
俺が横たえてから殺されるまでの短い時間で。
そうだとしたら、誰かに偶然発見されてその誰かが殺したという仮説よりも、俺が殺したという方が自然なんじゃないか。
その時、震える腕を次長が握った。
「どうしたんだ。何かあったのか」
心配そうに俺を見ている。
どうしよう、怖い。
自分が怖い。
この、目の前の優しそうな男を。
 

俺は殺すかもしれない。
 
記憶が失くなったら、俺は何をするか分からない。
駄目だ、そんな事をしては駄目だ。
早く警察に言って、何もかも話そう。
そうじゃないと、自分を抑える術を俺は知らない。
「じ、次長。俺……俺……」
「何だ。良いから俺に話してみろ、な」
 

駄目だ、駄目だ。
 

そんな事知られたくない。
 

「俺、今から警察に行きます」
すると次長は目を見開いた。
「何を……言う気なんだ」
「昨日の俺の行動を、全て」
ガタッ!
次長は言葉を飲み込み、立ち上がってこちらを見ている。
俺が犯人だと分かったのだろうか。
しかし、正直それはもうどうでもいいんだ。
次長を巻き込みたくない、いや、次長を殺したくない。
 

「早く、行かなくては」
俺は財布を取り出してお金を出そうとした。
早く警察へ……!
すると、次長は俺を制止して言った。
「いいから、とにかく落ち着きなさい、な?」
 

違う、違う。
 

これはアンタの安全のためなんだ。
 

俺は言葉に詰まり、首を横にただ振った。
そんな様子をじっと見ていた次長は、俺の横に来て肩に手を置いて言った。
「分かったから、な。とにかく落ち着こう。一旦会社に戻って、それからだ」
次長はサッと勘定を済ませ、俺を促すように後ろを歩いて店を出た。
「一度俺に話してみろ、な。大丈夫だ」
恐怖で混乱した俺は、次長の申し出につい頷いてしまった。
 

   

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