モイライの糸 8

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【霧が晴れるとき】

 

「皆の居る所じゃ難だな。非常階段へ行こう」
次長に促されるままに、俺たちは忌まわしいあの休憩所へ向かった。
俺は、昨日春岡が立っていた鉄柵に手を置いた。
ここで。
ここで春岡は意識を失った。
俺が突き飛ばしたんだ。
「川崎君、ここなら良いだろ。一体どうしたんだ」
振り返ると、井口次長はパイプ椅子に座り、煙草に火を点けていた。
春岡は長めの海外煙草だったが、次長は短くて軽い煙草を吸っていた。
昨日と同じ、潮風と煙草の混じった匂いが辺りに漂う。
じっと次長の顔を見つめた。
何から話せばいいのだろう……。
しかし、早めに話を終らせて警察へ行かないと、次長の身が危険だ。
俺は意を決して話し始めた。
 

「昨日……、俺春岡課長に会っていたんです」
次長は、椅子に腰を下ろしたまま、宙を見つめながら腕を組んだ。
きっと察してくれたのだろう。
「……そうか」
そう言うと、次長は銜えていた煙草をもみ消した。
「それで、警察へ行こうと?」
「はい。俺が昨日どのように行動したか、覚えてる事は全て言うつもりです」
これで良い。
俺が殺したと、きっと察してくれている。
それ以上言わなくても良いだろう。
意識も無く人を殺すかも知れないなんて、正直言いたく無かった。
「じゃあ……、俺、行きます」
すると、次長は俺を見据えて立ち上がった。
 

「いいじゃないか」
 

「は?」
俺は予想外の台詞に、面食らった。
次長は真剣な顔をして、さらに続けた。
 

「いいじゃないか、余計なことを言わなくても。

春岡なんて皆の嫌われ者だし、死んで当然だ。奴の為に人生狂わせなくても良いじゃないか。

警察は夜に殺されたと思ってる。何故わざわざ昼過ぎに殺しましたと言いに行く必要がある。

黙ってれば分かりっこ無い、知らないと言えば良いじゃないか」
 

あまりの剣幕に驚きつつ、俺は何か引っ掛かるものを感じた。
 
昼過ぎ?
 

俺はそんな事一言も言って無い。
昨日春岡に会ったと言っただけだ。
なぜ、昼過ぎに会ったと知っているんだ?
関口たちにも、俺は用事があるとしか言っていない。
俺は次長を見つめ返した。
「井口次長、なぜ昼過ぎだと……」

次長はあっと目を見開いた。

そうだ、その事実を知る人間は、限られている。

「あ、あなただったんですね……!」
俺は急速に自分の思考の霧が晴れて行くのを感じた。
 

  

【真実へ】

 
ふと、静寂を切り裂くように携帯電話が鳴った。
次長は片手を上げて俺を見据えながら電話を取った。
「なんだ、君江か。ああ、気にするな。うん、うん。それは帰ってから話すから、うん。今人と話しているんだ、すまんが後でな」
携帯を切った彼に尋ねた。
「……奥様ですか」
「そうだ。俺が春岡を殺したんじゃないかと心配している」
両手を広げて自嘲気味に笑って言った。
「真実だ」
俺は、固唾を呑んで彼の言葉を待った。

  
「君江は、初め春岡の女だった。奴に遊ばれて、捨てられて……。その時彼女は29だったよ。

放っておけなかった。当時事務員だった君江の相談に乗ってる内に、俺たちは愛し合うようになったんだ。その時から、俺は春岡が嫌いだった」
次長は苦々しく眉を歪めて、拳を握った。
「その後の春岡の傍若無人振りは、川崎君も知っているだろう」
俺は、言葉も出せずにただ少し後ろへ身じろいだ。
 

そう……、井口次長は春岡からよく説教や小言を貰っていた。
「のんびりしやがって、この愚図!」
「何でも良いから、契約取ってきて、契約」
確かに次長はミスも多かった。
しかし元は自分の上司だった彼によくもここまで言えるもんだと、俺も思ったことがある。
しかし、この会社に居る誰もが、春岡には嫌な目に合わされている。
あれは、ここじゃ特別な事じゃなかったんだ。
 

「俺は奴にどれだけの苦渋を舐めさせられたか……!地位も取られ、手柄も取られ、事ある毎になじられて。」
彼は肩を震わせた。
「……実は、君が会う前に、俺はここで春岡と会っていたんだよ」
「……え?」
言われてみれば、俺が春岡に会うまでに1時間猶予があった。
その時か!
一体彼と春岡の間に何があったのだろうか。
その答えは、すぐに彼が話すだろう。
彼は続けた。
 
「奴は俺にショッピングモールの担当を川崎君に頼もうと思うと言ってきた。そして、君を次長に推薦し、俺を……倉庫の在庫係に移動させると言い出したんだ」
何だって?信じられない!
通常そんな移動はありえなかった。
これは事実上のリストラ勧告じゃないか。
仕事を奪い、立場を失くしてじわじわと自ら依願退職を申し出るように仕向けるつもりだ。
春岡は、それほど井口次長を疎んでいたのか……!
次長は涙を溜めて話を続けた。

 
「今更営業を外されるなんて、思いもしなかった。しかし、俺にはもう家族が居る。娘はまだ八歳、今からどんどん金が掛かるし、逆らって職を失くす訳にはいかない。惨めでも、唇を噛み締めて居残る事を決め、了承したよ」
そんな事が……。
そのとき、次長はどんなに絶望した事だろう。
決して想像に難くなかった。

「呆然と立ち尽くした俺に、春岡は追い討ちをかけるように言ったんだ。明日からは倉庫が仕事場だ、在庫チェックでもしてきたらどうだと。

……殺してやりたいと思ったよ。

しかし、何だか脱力してしまって逆らう気力も無くなった俺は、そのまま春岡と別れて鍵を取り、倉庫へ向かったんだ。
手袋をして中に入り、奥の方に積んであったショッピングモールに納入するパレットを複雑な気持ちで見ていると……。

そう、君が入ってきたんだ」

どくん。
俺の心臓が激しく鼓動した。
 
「最初は何事かと思ったよ。

春岡を運んで来た君は、キョロキョロ辺りを伺いつつ外へ出て行った。

もう死んでるのかと思ったけど、近付いてみたら奴はグッタリしてたが生きていたんだ。
俺は神に感謝したよ。
目の前に、奴が居る。
意識は無い。
今まで奴にやられた事が俺の脳裏に次々に浮かんでは駆け巡ってる間に、右手は自然と瓶に握っていた。
そして次の瞬間。
迷いも無く瓶を振り下ろした自分が居たんだ」
 
ごくり。
 
俺の唾を飲み込む音がやけに大きく鳴った。
 
 

【命の攻防】

 
井口次長に殺人を犯させてしまった。
原因を作ったのは俺だ。
春岡は決して慕われたような人物では無かったが、殺してしまえば、それは罪だ。
過ちは、償わなければならない。
俺は次長を見つめて、言った。
「次長。……警察に、行きましょう」
ピクッと動いて彼は言った。
「何故だ」
眉を寄せてこちらを見ている。
「春岡は確かに酷い男でした。けれど、殺してしまったならば罪は償わなければならないでしょう。思わず殺した事を訴えれば、きっと情状酌量もあります。次長、一緒に行きましょう」
すると、次長の顔に朱が差して来た。

「何を言っている!大丈夫だ、警察は犯人を絞り込めていない。ずっと冷蔵されていたんだ、きっと死亡推定時刻も同じだろう。俺たちさえ黙っていれば、見つからないんだよ!俺は、君は余計な事は言わないと思って安心していた。君だって殺したいほど憎んでたんだろ?!あそこにヤツを置いたのはキミだ!……なあ、春岡に会っている事は誰も知らない。会社の噂では高橋が殺した事になっている。目撃者も居ない。良いじゃないか」
 
俺は首を振りながら言った。
「駄目です次長、一緒に行きましょう」
手を差し出すと、次長はその手を払い除けた。
その時、明らかに彼の目の色が変わった。

 
「川崎君」
俺は、次長の迫力に圧されて後退った。
一歩。
「この事実を知っているのは、俺と君だけなんだよ」
二歩。
「キミの様子がどうもおかしいから、食事に誘って連れ出したんだ。良かったよ、キミの考えが警察より早く聞けて」
ガシャン。
後ろ手に春岡が頭を打ち付けた鉄柵を感じた。

 
「や、止めて下さい……!」
冷や汗とも脂汗とも分からないものが、背中を伝う。
「ここは精々3階ほどの高さです、突き落としても俺が死ぬとは限りませんよ」
精一杯の虚勢を張る。
井口は薄笑いを浮かべながら答えた。
「大丈夫だ、もし息があれば、止めを刺しに行く」
本気だ。
 

次の瞬間、彼の手が、俺の肩を押そうと伸びた。
俺は手を払い除け、次長に体当たりをした。
少しよろけたが、彼はすぐに俺に組みかかって来た。
無理矢理柵の外へ俺の体を落とそうと、お互い腹をくっ付けた状態で両肩を押えて来る。
片手だけどうにか突っ撥ねた。
すると、その手が次に選んだ所は、俺の首だった。

 
ぐっ!
 

この手を退けなければ、俺は突き落とされてしまう。
苦しい……。
必死で手首を掴み引き剥がそうとするが、みるみる手に力が入らなくなってきた。
ちくしょう、俺も高橋みたいにジムにでも通っておけば良かった……。
「俺は、職を失う訳には行かないんだ。川崎、お前は何故俺の言う通りにしてくれないんだ……!」
視界が暗くなりかけた。
 
何て俺はツイてないんだ……!
よりにもよって真犯人に、勝手な俺の思い込みを告白しようとしていたなんて。
お笑い種だ……な……。
意識を失いかけた、その時。
不意に横からの衝撃で、俺たちは床に投げ出された。
 

 

【決着の行方】

 
げほっ、げほっ!
咳き込んでいると大勢の靴音が聞こえた。
「大丈夫か?」
涙で滲む目を袖で拭い、辺りを見回す。
すると、俺たちの周りは数人のスーツの男たちと警官が取り囲んでいた。
スーツの男は多分刑事だろう。
「げほっ!だ、大丈夫で……す」
どうにか返事をすると、刑事は肩を抱きかかえるようにして俺を立たせた。
「良かったな、生きてて」
すぐ横では、井口次長が非常階段の床に腹這いに押さえつけられ、後ろ手に拘束されていた。
 
「井口一彦だな。殺人未遂の現行犯で逮捕する。春岡雅司殺害の件も色々と聞かせて貰うぞ」
男はぶっきら棒に言い放つと、次長に手錠を掛けた。
「俺は何もしていない!春岡が死んだ夜は家に居たし、恨みを持ってる奴なんか、一杯居るじゃないか!」
叫ぶ次長に、刑事は言った。
「あのな、現在の検死を舐めて貰っちゃ困る。今は遺体を冷やしたりして小細工しても、ちゃんと調べれば死亡時刻は分かる様になってるんだ。春岡の死亡予想時刻は夜じゃない、昼過ぎから夕方に掛けてだ。お宅の会社で噂だった高橋佳吾のアリバイは、そこの花屋ですぐに証明出来たよ。その高橋が目撃してたんだ。お前が倉庫から出てくるのをな。」
 
がっくりとうな垂れる次長を尻目に、刑事は俺の方へ向き直って続けた。
「勿論川崎、お前も来て貰う。さっきの会話は全て聞かせて貰ったが、詳しい事も聞きたいからな。何か質問はあるか?」
その問いに黙って首を横に振ると、刑事は手錠を取り出した。
 
ガチャリ。
 
俺は、手錠の冷たさに何故か安堵感を覚えた。
さすがにクビだろうな……。
この好きだった忌まわしい場所も、二度と訪れる事はないだろう。

ここで海を眺めるのは、最後かも知れない。
俺は、顔を上げて目を凝らした。
穏やかな光を湛えた海は、いつものように静かに輝いていた。
澄んだ潮風をたっぷりと吸う。

やっぱり綺麗だと思った。

― 完 ―

  

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