原は入社6年目のベテラン事務員。
今年大学を卒業したばかりという関口の面倒を、よく見ていると思う。
原は18で入社しているので、歳はそんなに離れていないのが良かったのかも知れない。
この二人はとても仲が良いようだった。
「そういえばぁ、高橋さんってぇ、カッコイイですよねぇー」
関口がニコニコしながら唐突に言いだした。
「あら、彼はもう売れちゃってるわよ?残念ね」
原は悪戯っぽく微笑んで、首を傾げた。
「エエー、そうなんですかぁー」
「新婚さん!確かまだ3ヶ月位よ。仕事にも張りがでたんじゃない?」
「そっかぁー、密かに狙ってたのにぃー」
関口は残念そうに体を揺らして口を尖らせた。
高橋佳吾、25才、新婚ホヤホヤ3ヶ月目。
真面目な好青年で、至って素直なハンサムボーイだ。
まあ、俺の敵?みたいな。
ジムに通った痩せマッチョなボティと爽やかな笑顔が女性社員の憧れらしい。
まあ、俺ほどじゃないさ!
そんな彼も春岡課長の毒牙に掛かった一人だ。
先月の事だった。
丁度その頃彼女と別れて傷心中な俺は、事務所の机でグダグダしていた。
すると、大きな声が来客用の応接ブースから聞こえて来た。
「納得が行きません、何故僕の名前が無いんですか!」
応接ブースはパーティーションで区切られているスペースで、密室ではないので声は筒抜けだ。
高橋の憤慨する声に続いて、対照的なちょっとおどけたような声が響いた。
「ちょとー、高橋君さー。その言い方はないでしょ」
春岡だ。彼は続けた。
「企画持って行ったら姉ちゃんが喜んだんだよ、雅司凄いジャンって。
したら、いや俺じゃ無いとか言い出し辛いじゃん?何かそんな流れだったんだよねー」
全然悪びれた風ではなかった。
「次は高橋君の名前で出すからさ、次も頼むよ、ねっ!」
春岡は、興奮冷めやらぬ高橋を置いて、するっと衝立から出て行った。
春岡が人の手柄を持っていくのはよくある事だ。
別段珍しい事じゃない。
しかし、ここまで感情を露に抗議する人間は居なかったので、非常に珍しい事件として皆の記憶に留まった。
皆諦めているのだ。
女子社員と和やかに談笑した俺は、少し気分も晴れた。
時計を確認すると、3時まであと15分だった。
「あ、俺用事あるんだった」
「そうなんですかぁー。お疲れ様でぇす」
「あ、じゃあ私たちは失礼します」
二人はぺこりと頭を下げて、事務所を出て行った。
さて、俺も打ち合わせの用意をして出よう。
資料を簡単にまとめて鞄に放り込み、足早に喫煙所へ向かった。
少し早めに到着したのだが、既に春岡は煙草をくゆらせていた。
この喫煙所は海が見える。
春岡フードは港の近くに建っているのだ。
潮風と煙草の煙がふんわり漂ってきた。
「オッツー、川崎君」
いつもの様に軽い挨拶だ。
「あ、ども」
俺もいつもの様に軽く会釈をして、パイプ椅子に鞄を置いた。
奴は踊り場の鉄柵に寄り掛かるようにして立っていた。
鉄柵の外に灰を落としながら、こちらを向いてニヤニヤと笑っていた。
本当にいけ好かない男だ。
俺は煙草を吸わない。
嫌煙という程でもないが、あまり吸いたいと思わなかっただけだ。
しかし、この場所は好きなんだよね。
だから、煙草も吸わないのに、俺はちょくちょく気分転換にこの場所を訪れたりしていた。
俺は春岡の言葉を待った。
「ショッピングモールの件なんだけどさ、全体的な事は川崎君に一任するから、引き続き調整は君にお願いしたいんだよね」
そんな事だろうと思ったよ……。
断れるはずが無いじゃん。
そうか、他の人間が居ない所で俺に言いたかったんだな……。
そう思うと、背中の辺りがざわざわするが仕方ない。
相手は社長の次男坊だ、我慢するしかない。
「はあ、構いませんが……」
俺は切れの悪い返事をしたが、そんな事はお構い無しに、晴れやかな声で笑いかけてきた。
「助かるよー!俺あそこの店長苦手なんだよねぇー」
それは分かる気がする。
あまり冗談の通じない相手で、俺も普通に談笑するほど打ち解けるのに、かなりの時間を要したもんな。
(……しかし、お前も少し努力しろよ!)
そんな俺の心情を全く知ってか知らずか、春岡はもう用事は終ったとばかりに、雑談を始めた。
「俺さー、今の彼女と別れようかと思ってるんだよねー」
何を喋るのかと思えば女の話だ。
(知るかよ!)
湧き上がる心の声を押し殺しながら聞いた。
「あの女ももう30なんだよ。もう新鮮味も無いし、結婚結婚ウルサイし、そろそろ別の彼女が欲しいなってさ」
「はぁ……。しかし、今の彼女さん、結婚したがってるんじゃないんですか?」
ヤツの勝手な言い分に、俺はそう返すのが精一杯だった。
「そうかもねー。でも、俺って独身主義な人じゃん?」
(人じゃん?って言われてもなぁ……)
酷い話だ……。
奴の彼女がどんな人かは全く知らないが、コイツの話を聞いていると物凄く不憫に思えてくる。
ふと俺は、自分の事と比べてしまった。
俺は彼女に振られたばかりで傷心中だ。
お前なんかに惚れてくれる女を……。
再び背中からざわざわした気持ちが湧き上がるのを感じながら、俺は話を聞いていた。
「俺って女には不自由した事無いんだよね。次は思いっきり若い子がいいかなー、微妙な歳の女は面倒臭ぇな!」
どうも春岡は自慢モードに入ったらしい。
むしろ、こちらが本題じゃないかとさえ思える。
こうなると、持ってる車の自慢まで発展しそうだ。
神様がもし居るとしたら……。
神はとても不公平だ。
俺だってそこそこイケてると思うんだけどなー。
背はまあそんなに高くはないけど、春岡よりは高い。
仕事柄話術も長けてるし、話題も尽きないし。
その所為か女にはやれ遊んでるだの、やれ軽そうだの言われるけど、俺だって努力してるんだ。
そんな俺とは対照的に、名刺をチラつかせながら女を次々と変えていく春岡。
奴の性格は、お世辞にも良いとは言い難い。
小ずるくて軽薄で、わがままで無責任だ。
こんな男だが、何れこの会社の重要なポストに落ち着くのだろう。
普段はゴルフに明け暮れ、まともに出社もしないような日々を送るのだ。
そして、何処ぞの育ちの良いお嬢様と結婚して、クラブのママとねんごろになって……。
ヤバイ、妄想が止まらない。
……ちくしょう。
まるで安っぽいドラマのような設定がどんどん湧き上がり、俺の劣情に小さな火が灯った。
俺は出来るだけ冷静を装い、眼下に広がる穏やかな海を眺めて自分を落ち着かせようとした。
そんな俺を尻目に、春岡の口は止まらない。
「しかし川崎君、キミ彼女居たでしょ。結婚しないのー?」
「いや、そうですね……」
「なに?その微妙な反応ー。さては別れたんだろ!」
何故こういう所はヤケに敏感なんだ、この男は!
普段のボケっぷりが信じられない。
動揺を抑えきれずに、俺は少したじろいだ。
出来ればまだ触れて欲しく無い所だった。
俺はまだ陽子が諦められないで居るのに……。
「なになにー?!マジでー?!」
満面の笑顔でこちらににじり寄ってくる。
嬉々とした表情を見た俺は、劣情に灯った火が、炎になったのを感じた。
「おいおい、そんな顔すんなよー」
もう―――、近付くな。
「振ったの?振られたの?ねぇねぇ、もしかしてまだ未練あるとか言わないよねぇ」
春岡は唇を歪めながら、心から楽しんでいる。
この男が、俺から契約を奪って、面倒を押し付けて、さらに、俺をバカにしている……!
「でもさぁ、俺に言わせれば女なんて面倒だし、キミが羨ましいくらいだよ。マジ、マジ!」
心にも無いことを言いながら、奴は俺の肩に手を置いた。
―――っ!
その瞬間、俺の中で何かが弾けた。
「うるさいっ……!!」
手を、兎に角この手を……!
退けてくれっ―――
俺は春岡の手を払い除け、その手で奴の肩を突き飛ばした。
「……おっ」
そう小さく言った春岡は、バランスを崩して後ろに勢い良くよろけた。
ガツッ……!!
…………え?
そこからはまるでスローモーションを見てる様だった。
鉄柵に後頭部をぶつけた春岡は、一瞬目を見開いた。
そして、まるで糸の切れた操り人形のようにその場に崩れ、変なポーズでだらしなく口を開けて転がった。
薄く開いた両目に、生気は無い。
あ…………。
嘘だろ……?
そんな事は…………。
そんなに強く押して無い。
そうだ、俺は、ちょっと、軽く。
突き飛ばした――
抗いがたい現実が、俺の目の前に転がっていた。
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